小説とは時間

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『埋葬』(横田創 早川書房) 図書館のラベルが見えないように…

久しぶりに小説を読んだ。

私は「今、私は小説を読む体力と気分と時間を十分に持ち合わせている」と感じた時に、小説を読む。

今回は、幸運にもその瞬間に、想像を超える深さと広さをたたえた物語の水槽に勢いよく飛び込むことができた。一気に泳ぎ切った。

 

三十歳前後と見られる若い女と生後一年ほどの幼児の遺体が発見された。犯人の少年に死刑判決が下されるが、まもなく夫が手記を発表する。

その手記が連綿と綴られていく。遺体となった妻と子を抱いて、車へと走り出す。ある約束を果たすために、必死に目的地へと車を走らせる。過去と現実、焦りと冷静が入り混じる中で、夜の高速道路の描写はその場の空気を伝えてくれる。料金所や、深夜のサービスエリアでの、赤の他人との接触。そのやりとりが、夫の混濁した意識を浮き彫りにする。

手記の合間に、事件を取材する「わたし」が関係者へ行ったインタビューが入る。夫とは違った視点で、妻がどんな人物だったのかが炙り出されていく。

手記の全文引用が終わると、「わたし」の少年へのインタビューが始まる。事件について、そして女と子について語る少年の言葉は、聞く者を取り残し、大きな滝のように流れていく。その言葉を一言たりとも逃すまいと、気づけば前のめりになっていた。

 

小説は描かれる世界を楽しむもの。楽しんでいる時間こそが小説なのだと、書いていて気づいた。

では、今、小説について書いている時間は何なのか。それも小説の続きなのかなと思う。